歴史むら

日本の歴史を通してすべての人々が夢と希望のある生活をしてほしい

2018-07-01から1ヶ月間の記事一覧

天皇の譲位

日本での最初の譲位は645年の皇極天皇から孝徳天皇への譲位が初である。 天皇が譲位いたあと天皇は太上天皇(じょうこう)という尊号を受け取る。 初めて太上天皇の尊号を与えられた天皇が持統天皇である。 譲位は王位継承の争いを未然に防ぐ効果があった。 大…

日本史史上二人目の女帝が初の生前退位

大王というのは昔から有力豪族たちの合議制で次の大王が決まっていた。 大王が次期大王を決めることは今までありえなかった。 推古天皇が死の間際に山背大兄王と田村皇子(後の舒明天皇)に一言ずつ助言をして亡くなったがその言葉が有名豪族たちのなかで次期…

二人の天皇の母

皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)を産んでいる。 日本の律令国家の始まりに貢献した二大天皇を産んだ皇極天皇は素晴らしいです。 乙巳の変で蘇我入鹿の殺害した後大化改新という律令国家への改革が進みました。 ただ中大兄皇子は天智天…

大兄王の意味

大兄とは治天下大王の王位継承者の意味である。 有名な人物でいうと山背大兄王がそれにあたる。 大兄王と名前がつく人物は次期大王候補という意味がある。 王族の長男が大兄と言われ、長男の次の大王候補者が次男、その次が三男、末弟と続く。その兄弟すべて…

二人目の女帝

推古天皇の次に舒明天皇、その次に第二の女帝である皇極天皇が即位した。 夫が亡くなって妻が天皇に即位した例は皇極天皇と持統天皇である。 持統天皇とは天武天皇の妻で天武天皇が亡くなって天武天皇の代わりに天武天皇がやり残した事業をこなした日本の国…

皇極天皇

舒明天皇の奥さんの皇極天皇です。 舒明天皇が40代で亡くなったので次の天皇の王位継承者がなかなか決まらなかったので中継ぎとして皇極天皇が即位した。 舒明天皇、皇極天皇を挟まずに山背大兄王が天皇になってもおかしくないくらい山背大兄王は候補として…

蘇我入鹿が亡くなった後の蘇我氏

入鹿は中大兄皇子に飛鳥板蓋宮で殺されます。 乙巳の変。 雨が降りしきるなか、皇極天皇の目の前で殺されます。 そのあと父の蘇我蝦夷は自害してしまいます。 入鹿が亡くなった後蘇我氏の力は衰えていきます。 入鹿とは遠い親戚の蘇我赤兄(そがのあかえ)であ…

蘇我馬子の孫、蘇我入鹿

皇極天皇に変わってから父の蘇我蝦夷から大臣の位を譲ってもらった蘇我入鹿は実質蘇我氏のトップに躍り出た。 蝦夷はどちらかといえば慎重派であるが入鹿は大胆な行動派で自分の好き勝手に政治をして民衆からの信頼もよくなかった。 蝦夷は次の大王に古人大…

蘇我馬子の子、蘇我蝦夷

推古天皇末から皇極天皇まで大臣として活躍。 父の蘇我馬子の跡を引きついだ。 推古天皇亡き後の後継者として 蘇我蝦夷は田村皇子を 蘇我蝦夷の叔父の境部摩理勢は山背大兄王(聖徳太子の子)を時期大王後継者として立てた。 山背大兄王の方が血統的にも申し分…

推古天皇の王位継承問題

飛鳥時代当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であっ…

天皇崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。 40代半ば亡くなる天皇もいれば70代まで生きる天皇もいた。

推古天皇亡き後

聖徳太子、推古天皇、蘇我馬子が亡くなり、時代は次の世代に移り変ろうといていた。 当時、大王の跡継ぎは有力豪族の合議制で決められていおり、大王自らが次の大王を決めることはできなかった。 有力豪族として時期大王を推薦したのが境部摩理勢が推薦する…

勾玉の謎

勾玉とは古代の人々の装身具である祭祀などに用いられたがはっきりした使用方法も勾玉の意味もわかっていない。勾玉の形の由来として有力な説がいくつかある。動物の牙で作った牙玉胎児の形を模したという説魂の姿に似せた説巴型の説太陽と月をイメージした…

言霊 〜口頭によるマツリゴト〜

飛鳥時代の倭国は文書での政務というものがあまり受け入れられていなかった。文字も紙もまだまだ未発達な日本は口頭による政務が基本でした。口頭によるマツリゴトは、文書とちがってその場かぎりでありあとには残らない。今の時代では口約束なんて何の正当…

失敗から学んだからこそ日本は発展した

遣隋使によって倭国がどれだけ遅れた国家なのかを思い知らされたと思います。すごく恥ずかしい思いをしたのではないだろうか、でもこの恥ずかしい思いがあったからこそ、倭国をもっと発展させようと思ったに違いない。国家形成をしっかりして外国との国交を…

遣隋使 日出処の天子

2回目の遣隋使では大使を小野妹子として607年に派遣した。またも対等外交を目的として有名な遣隋使である。「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙きや、云々」という書き出しの国書が煬帝の怒りをかい、「蛮夷の書、無礼なるものあり。またもって…

隋との対等外交失敗その二

第一回の遣隋使は倭王の独自性を主張することでその存在をアピールしようとしたのであろうが、隋に対してまったく通用せず、逆に呆れられてしまい、中国式の聴政(政治を執ること)を教えられて帰ってくるありさまであった。こうして倭王権は自分たちの政務、…

隋との対等外交失敗

「隋書」によれば600年、倭王使者を派遣してきた。高祖文帝は、はじめて使節を派遣してきた倭国に関心を示し、その風俗習慣を尋ねさせたところ、倭国の使者は「倭王は天を兄とし、日を弟としています。天皇がまだ明けぬうちに(夜明け前)王宮に出てきてあぐら…

遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。飛鳥時代…

女帝推古天皇から時期天皇へ

推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子・山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めた…

おそらく蘇我馬子のお墓

おそらく蘇我馬子のお墓は石舞台古墳だとされています。

天皇を殺害した男

物部氏を滅ぼした馬子は実質的に政治の実権を握った。当時の天皇は崇峻天皇である。崇峻天皇はすべての権力を握っている馬子に対して不満を抱いていた。592年、崇峻天皇の元に猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思…

日本最古の政治家

蘇我馬子の父の蘇我稲目を時代に仏教と仏像が倭の国にもたらされた。馬子も仏教を広めようと自宅に仏殿を建立し仏像を安置して自分の家臣達に拝まさせていた。そのころに倭の国では疫病が流行、多くの人々が亡くなっていった。これは外国の神さまなんか信仰…

物部守屋と蘇我馬子は仲が悪かった

585年、敏達天皇が亡くなった。葬儀の最中に守屋と馬子はお互いに罵倒した。守屋「(長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子へ)まるで矢に射られた雀のようだ」馬子「(緊張で体を震わせながら弔辞を読む守屋へ)鈴を付けたらさぞ面白かろう」犬猿の仲だったようで…

十七条憲法の覚えるべきところ

一に曰く、和をもって貴しと為し。だけ覚えていれば十分でしょう。

十七条憲法

夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(…

冠位十二階の目的

冠位十二階の制定の目的は2つある。1つは家柄にこだわらず貴族でなくても有能な人材を確保することを目的とした。もう1つは外交使節の威儀をととのえるためである。古代の人々は家柄を重要視していたけど冠位だけは個人に対して登用して世襲しないように…

冠位十二階

隋との国交を対等にするために倭の国でもしっかりとした国家形成を目指そうと603年に冠位十二階が制定された。605年から648年まで続いた。この制定により人材登用の道が開かれ朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けることになった。

聖徳太子

聖徳太子はもともと厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていた。馬小屋の側で生まれたのが名前の由来である。

小墾田宮

推古天皇は小墾田宮で国家権力の中心として政務を行った。当時倭の国には左右対称という概念がなかった。隋の長安を真似て南に南門、庁が並ぶ朝庭、北の大門に推古天皇が住まう大殿という左右対称の建物、空間ができた。この空間は当時にしては他の場所とは…