歴史むら

日本の歴史を通してすべての人々が夢と希望のある生活をしてほしい

2018-07-23から1日間の記事一覧

勾玉の謎

勾玉とは古代の人々の装身具である祭祀などに用いられたがはっきりした使用方法も勾玉の意味もわかっていない。勾玉の形の由来として有力な説がいくつかある。動物の牙で作った牙玉胎児の形を模したという説魂の姿に似せた説巴型の説太陽と月をイメージした…

言霊 〜口頭によるマツリゴト〜

飛鳥時代の倭国は文書での政務というものがあまり受け入れられていなかった。文字も紙もまだまだ未発達な日本は口頭による政務が基本でした。口頭によるマツリゴトは、文書とちがってその場かぎりでありあとには残らない。今の時代では口約束なんて何の正当…

失敗から学んだからこそ日本は発展した

遣隋使によって倭国がどれだけ遅れた国家なのかを思い知らされたと思います。すごく恥ずかしい思いをしたのではないだろうか、でもこの恥ずかしい思いがあったからこそ、倭国をもっと発展させようと思ったに違いない。国家形成をしっかりして外国との国交を…

遣隋使 日出処の天子

2回目の遣隋使では大使を小野妹子として607年に派遣した。またも対等外交を目的として有名な遣隋使である。「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙きや、云々」という書き出しの国書が煬帝の怒りをかい、「蛮夷の書、無礼なるものあり。またもって…

隋との対等外交失敗その二

第一回の遣隋使は倭王の独自性を主張することでその存在をアピールしようとしたのであろうが、隋に対してまったく通用せず、逆に呆れられてしまい、中国式の聴政(政治を執ること)を教えられて帰ってくるありさまであった。こうして倭王権は自分たちの政務、…

隋との対等外交失敗

「隋書」によれば600年、倭王使者を派遣してきた。高祖文帝は、はじめて使節を派遣してきた倭国に関心を示し、その風俗習慣を尋ねさせたところ、倭国の使者は「倭王は天を兄とし、日を弟としています。天皇がまだ明けぬうちに(夜明け前)王宮に出てきてあぐら…

遣隋使

遣隋使(けんずいし)とは、推古朝の時代、倭国(俀國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。飛鳥時代…

女帝推古天皇から時期天皇へ

推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子・山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めた…

おそらく蘇我馬子のお墓

おそらく蘇我馬子のお墓は石舞台古墳だとされています。

天皇を殺害した男

物部氏を滅ぼした馬子は実質的に政治の実権を握った。当時の天皇は崇峻天皇である。崇峻天皇はすべての権力を握っている馬子に対して不満を抱いていた。592年、崇峻天皇の元に猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して「いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思…

日本最古の政治家

蘇我馬子の父の蘇我稲目を時代に仏教と仏像が倭の国にもたらされた。馬子も仏教を広めようと自宅に仏殿を建立し仏像を安置して自分の家臣達に拝まさせていた。そのころに倭の国では疫病が流行、多くの人々が亡くなっていった。これは外国の神さまなんか信仰…

物部守屋と蘇我馬子は仲が悪かった

585年、敏達天皇が亡くなった。葬儀の最中に守屋と馬子はお互いに罵倒した。守屋「(長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子へ)まるで矢に射られた雀のようだ」馬子「(緊張で体を震わせながら弔辞を読む守屋へ)鈴を付けたらさぞ面白かろう」犬猿の仲だったようで…

十七条憲法の覚えるべきところ

一に曰く、和をもって貴しと為し。だけ覚えていれば十分でしょう。

十七条憲法

夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(…

冠位十二階の目的

冠位十二階の制定の目的は2つある。1つは家柄にこだわらず貴族でなくても有能な人材を確保することを目的とした。もう1つは外交使節の威儀をととのえるためである。古代の人々は家柄を重要視していたけど冠位だけは個人に対して登用して世襲しないように…

冠位十二階

隋との国交を対等にするために倭の国でもしっかりとした国家形成を目指そうと603年に冠位十二階が制定された。605年から648年まで続いた。この制定により人材登用の道が開かれ朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けることになった。

聖徳太子

聖徳太子はもともと厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていた。馬小屋の側で生まれたのが名前の由来である。

小墾田宮

推古天皇は小墾田宮で国家権力の中心として政務を行った。当時倭の国には左右対称という概念がなかった。隋の長安を真似て南に南門、庁が並ぶ朝庭、北の大門に推古天皇が住まう大殿という左右対称の建物、空間ができた。この空間は当時にしては他の場所とは…

推古天皇

日本書紀によると603年に豊浦宮(とゆらのみや)で推古天皇は即位した。豊浦宮から新宮として小墾田宮(おはりだのみや)に移したという。この小墾田宮で蘇我氏、聖徳太子を中心に冠位十二階、十七条の憲法、遣隋使の派遣などの重要政策が行われた。

飛鳥時代二大勢力

飛鳥時代の2大権力は蘇我氏の蘇我馬子と物部氏の物部守屋である。蘇我馬子は仏教派物部守屋は日本古来の神々を信仰している。外国からの新しい神と日本の由緒ある神々を巡る対立があり激しい争いがあった。物部氏を滅ぼした蘇我氏が権力を握って仏教を日本広…

蘇我氏家系図

孝元天皇(こうげんてんのう)↓彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)↓屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)↓武内宿禰(たけうちのすくね)↓蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)↓蘇我満智(そがのまち)↓蘇我韓子(そがのからこ)↓蘇我高麗(そ…

日本古代の文明開化

日本に仏教が伝わったのは6世紀半ば頃とされている。時の大王、欽明天皇は百済から伝えられた仏像を蘇我稲目(蘇我馬子の父)に与えてまつらせた。仏教が日本に伝わると同時に建築技術、彫刻、土木工事、天文学、学問、漢字、紙の製法などが伝わり新しい技術が…