隋との対等外交失敗その二
第一回の遣隋使は倭王の独自性を主張することでその存在をアピールしようとしたのであろうが、隋に対してまったく通用せず、逆に呆れられてしまい、中国式の聴政(政治を執ること)を教えられて帰ってくるありさまであった。
こうして倭王権は自分たちの政務、儀礼形式が国際社会でまったく通用しないものであることを思い知らされるのであった。
一世紀以上にわたる中国との国交途絶のギャップは思いのほか大きかったのである。
このときの衝撃はの大きさは、のちにみるように、その直後から推古天皇の小墾田宮の造営、冠位十二階、十七条憲法の制定、朝礼(朝廷での礼儀作法)の改定など、倭王権の政務、儀礼形態の全面的な改正を急速に進めていったことからも十分に推測できる。
「日本書紀」にはこの第一回遣隋使のことについては一切ふれられていない。
面目丸つぶれの状態を載せるのは忍びなかったのであろう。