歴史むら

日本の歴史を通してすべての人々が夢と希望のある生活をしてほしい

飛鳥時代

八色の性

八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のこと。

草壁皇子

天武天皇、鸕野讃良(持統天皇)の間に生まれた草壁皇子。 二人から天武天皇の次の天皇としての即位を約束された存在であったが天武天皇崩御の翌年に急死してしまった。 草壁皇子の息子に軽皇子がいたがまだ幼少だったので軽皇子が成人するまでの中継ぎとして…

飛鳥浄御原令

飛鳥時代後期に編纂された日本史上最初の律令法とされているが現存しておらず不明な部分がたくさんある。 天武天皇は官僚制度と諸制度を整備していった。 律令が完成する前の686年に天武天皇が亡くなってしまい、そのあとを継いだ鸕野讃良(後の持統天皇)と時…

日本の原型を作った天武天皇

天武天皇は13.4年間天皇として政務を行い崩御した。その天武天皇の意思を受け継いで皇后の鸕野讃良(うののさらら)が持統天皇として即位し天武天皇のやり残したことを実現させた。 天武・持統朝ともいう。 この時代に日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型…

壬申の乱

大海人皇子は天智天皇に大友皇子が天皇に即位するべきと推薦して吉野に出発した。 正確には大海人皇子は天皇に自分がなるというと暗殺される恐れがあるとの情報が入っていたので吉野に脱出したともいえる。 吉野から名張、伊賀、伊勢、美濃、と移動しながら…

天智天皇崩御前

天智天皇が無くなる前、時期天皇候補として大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の嫡男)に分かれた。 天智天皇は大海人皇子を呼び出して大海人皇子を次の天皇にして大友皇子を太政大臣にすることを告げた。 しかし、大海人皇子はそれを断って大友皇…

父母同じ兄弟の天皇

舒明天皇、皇極天皇の子として生まれた中大兄皇子と大海人皇子。 二人は後に偉大な天皇になる。 異母兄弟などはよくあることだが父、母、両方同じ親の兄弟の天皇は日本史史上天智天皇、天武天皇が最初で最期である。

6月10日は時の記念日

天智天皇は日本に初めて時計(漏刻)をもたらした。 6月10日は時の記念日 漏刻とは、水時計のことで、水が一定の速度で水海とよばれる壷に貯まり、水海の水位から時刻を測る時計のことです。 水の流入速度が一定になるように、夜天池、日天池、平壷、萬分壷の…

中臣鎌足と中大兄皇子の師匠

二人の師匠に南淵請安という人物がいる。 608年遣隋使小野妹子と高向玄理らとともに留学僧として随に留学する。 32年間中国で勉強し、随の滅亡と唐の建国を目の当たりにする。 中臣鎌足と中大兄皇子は南淵請安の塾に通う道中で蘇我入鹿暗殺を計画した。

中臣鎌足

中大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂らと協力して645年、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した。 中大兄皇子が蹴鞠で遊んでいたとき、けまりを蹴ろうと思いっきり足を振ったら靴が脱げてしまった。 その脱げた靴を中臣鎌足が拾って丁寧に中大兄皇子に渡した。 すると…

日本初年号

645年乙巳の変のあと、改新の詔によって様々な改革が実施された。 そのうちのひとつに年号が使用されることになった。 645年「大化」元年である。

租庸調

租は稲 庸は布や労働 調は地方の特産物 民衆の中から指名された運脚が地方から京の都まで足で運んでいた。 その分の食費は自分持ちで運んでる途中で亡くなる人もたくさんいた。

班田収授制

公地公民制により土地はすべて天皇のものになった。 その天皇の所有物である土地(田んぼ)を貸し与えるかわりに収穫から租として税を納めさせた。 戸籍、計帳に基づいて一人一人に土地を貸していた。

国郡里制

地方は一般に国、その下に郡、さらにその下に里を設ける行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。そのため国郡里制(こくぐんりせい)と呼ばれる。

公地公民制 すべては天皇のもの

もともと、土地というのはその地方を治めている有力豪族が支配していた。これを田荘(たどころ)という。 さらにその土地の人民もその土地の有力豪族が支配していた。これを部曲(かきべ)という。 この有力豪族たちが支配していた私的私有地、私的支配民を廃止…

大化の改新の主な制度

大化の改新は 1.公地公民制 2.国郡制 3.班田収授制 4.租庸調

大化の改新

孝徳天皇のときにすすめられた政策で主に皇極上皇天皇と中臣鎌足と中大兄皇子と大海人皇子が中心となって行った改革である。 この改革のはじまりは蘇我入鹿、蝦夷を暗殺した乙巳の変から始まっている。

2人の天皇に愛された女性

中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)に愛された女性がいる。 額田王である。 当時の倭国のナンバーワンの歌人である。 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(額田王) 紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも(大海人皇子) この…

日本の歴史上初の戦争

白村江の戦いで倭国は敗れた。 軍事統制能力が低すぎて兵を統率できずにみんなバラバラで戦ったことが敗因と言われている。日本の歴史上初めての外国との戦争である。 この敗戦によって軍隊の重要性であったり規律、戦術などを学んだ。 敗戦後、中国(唐)から…

天智天皇

倭国は白村江の戦いで朝鮮半島に出兵している頃斉明天皇は崩御した。中大兄皇子はまた天皇として即位せずに政治を行った(称制) 668年2月20日近江大津宮で天智天皇として即位した。

称制

称制(しょうせい)は、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。 日本では飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)と鸕野皇后(持統天皇)の二例が見られるが、どちらも『日本書紀』では一見してほとんど事…

冊封

朝鮮半島は当時、百済、新羅、高句麗と分裂していた。 中国では随にかわって唐が中国全土を統一していて絶大な力をもっていた。 百済、新羅、高句麗は3国同士で争いあっていたが中国の力の前ではなすすべもなく逆らえない状態であった。 3国が中国とは戦いが…

斉明天皇は土木工事工事が好きだった。

斉明天皇は62歳で飛鳥板蓋宮で即位した。 史上初の重祚である。 当時で言えばなかなかの高齢であった。 斉明天皇と言えば人々に労役を与えてたくさんの土木工事をしてきた。 石垣を作らせたり川から水が流れるように溝を掘らせたり、 大規模な工事をすること…

斉明天皇

孝徳天皇の次は退位していた皇極天皇が再び即位した。 斉明天皇である。 後の天智天皇、天武天皇の母である。

孝徳天皇

645年7月10日、乙巳の変が起こると翌々日皇極天皇は天皇の位を中大兄皇子に譲ろうとした。 しかし中大兄皇子は今の現状の立場の方が改革を行いやすいということで断って、代わりに軽皇子を薦めた。 軽皇子も断って古人大兄王子を推薦した。 三回お願いしたが…

天皇の譲位

日本での最初の譲位は645年の皇極天皇から孝徳天皇への譲位が初である。 天皇が譲位いたあと天皇は太上天皇(じょうこう)という尊号を受け取る。 初めて太上天皇の尊号を与えられた天皇が持統天皇である。 譲位は王位継承の争いを未然に防ぐ効果があった。 大…

日本史史上二人目の女帝が初の生前退位

大王というのは昔から有力豪族たちの合議制で次の大王が決まっていた。 大王が次期大王を決めることは今までありえなかった。 推古天皇が死の間際に山背大兄王と田村皇子(後の舒明天皇)に一言ずつ助言をして亡くなったがその言葉が有名豪族たちのなかで次期…

二人の天皇の母

皇極天皇は中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)を産んでいる。 日本の律令国家の始まりに貢献した二大天皇を産んだ皇極天皇は素晴らしいです。 乙巳の変で蘇我入鹿の殺害した後大化改新という律令国家への改革が進みました。 ただ中大兄皇子は天智天…

大兄王の意味

大兄とは治天下大王の王位継承者の意味である。 有名な人物でいうと山背大兄王がそれにあたる。 大兄王と名前がつく人物は次期大王候補という意味がある。 王族の長男が大兄と言われ、長男の次の大王候補者が次男、その次が三男、末弟と続く。その兄弟すべて…

二人目の女帝

推古天皇の次に舒明天皇、その次に第二の女帝である皇極天皇が即位した。 夫が亡くなって妻が天皇に即位した例は皇極天皇と持統天皇である。 持統天皇とは天武天皇の妻で天武天皇が亡くなって天武天皇の代わりに天武天皇がやり残した事業をこなした日本の国…