歴史むら

日本の歴史を通してすべての人々が夢と希望のある生活をしてほしい

草壁皇子

天武天皇、鸕野讃良(持統天皇)の間に生まれた草壁皇子

 

二人から天武天皇の次の天皇としての即位を約束された存在であったが天武天皇崩御の翌年に急死してしまった。

 

 

草壁皇子の息子に軽皇子がいたがまだ幼少だったので軽皇子が成人するまでの中継ぎとして鸕野讃良が天皇として即位した。

持統天皇である。

 

 

飛鳥浄御原令

飛鳥時代後期に編纂された日本史上最初の律令法とされているが現存しておらず不明な部分がたくさんある。

 

天武天皇は官僚制度と諸制度を整備していった。

 

 

律令が完成する前の686年に天武天皇が亡くなってしまい、そのあとを継いだ鸕野讃良(後の持統天皇)と時期天皇草壁皇子が689年に発布しようとしたが草壁皇子までの急に亡くなってしまった。

 

 

草壁皇子が亡くなったその年に飛鳥浄御原令は鸕野讃良によって発布された。

 

 

 

 

日本の原型を作った天武天皇

天武天皇は13.4年間天皇として政務を行い崩御した。その天武天皇の意思を受け継いで皇后の鸕野讃良(うののさらら)が持統天皇として即位し天武天皇のやり残したことを実現させた。

天武・持統朝ともいう。

 

 

この時代に日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代である。

 

白鳳文化の時代である。

 

 

壬申の乱

大海人皇子天智天皇大友皇子天皇に即位するべきと推薦して吉野に出発した。

 

正確には大海人皇子天皇に自分がなるというと暗殺される恐れがあるとの情報が入っていたので吉野に脱出したともいえる。

 

 

 

吉野から名張、伊賀、伊勢、美濃、と移動しながら地方の豪族の信頼を得て軍勢を増やし大友皇子の軍と戦った。

 

 

大海人皇子軍が近江朝廷軍を破ると大友皇子は首を吊って自害した。

 

 

673年2月、飛鳥浄御原宮大海人皇子は即位した。

 

天武天皇である。

 

 

 

天智天皇崩御前

天智天皇が無くなる前、時期天皇候補として大海人皇子(天智天皇の弟)と大友皇子(天智天皇の嫡男)に分かれた。

 

 

天智天皇大海人皇子を呼び出して大海人皇子を次の天皇にして大友皇子太政大臣にすることを告げた。

 

しかし、大海人皇子はそれを断って大友皇子を推薦して自身は出家すると言い、吉野へ出発した。

 

 

 

 

ここで自分が天皇になると言ってしまえば大友皇子を推薦している派閥からの襲撃を受けるという情報が入っていたので出家すると言ってすぐに吉野に脱出したといわれている。